昭和47年04月07日 朝の御理解



 御理解 第7節
 「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」

 天地金乃神は昔からある神ではあったけれども、途中からできた神でもなかったのだけれども、いうなら、知らなかった。いうなら、知らぬが仏と。間は、その天地の神様のおかげを受けておっても、おかげとも気が付かなかった。分からなかった。まあ、それも道理である。金光大神を通して、天地金乃神様のおかげを受けなければ、生きとし生けるもの、その御恩恵によらなければならんということが分かった。
 そこが分かっただけでは神様を、心からその神様をいわゆる、おかげをおかげと実感し、お礼を申し上げるほどの心というものは、生まれてこない。そこで天地日月の心になること肝要と仰るように、天地日月の心にならせて頂く精進をさして頂く所から、天地の神様のご威徳と言うものを察知する。感知する事が出来るようになるのです。昨日、私お道の新聞を見せて頂いておりましたらね。
 金光大神御理解、最近新たな御理解が発表されております。中に、最後のところに、何回も読んだけれども、気が付かなかったんですけれど、「神(は人の)敬うに(よって)威をます」というところがあります。神様は、敬うことによって、その威をます。ご威光というものが、発揮されるというわけですね。威光、威光の威です。ね、ここに全部ひらがなで書いてありますけれども、まあ、私はそうだと思うです。
 敬うということ。神様を敬うということ。神様を敬うことによって初めて神様はいよいよ威を増しておい出られる。神様を、いよいよ大切に尊ばせて頂くという事によって、いよいよ、その神様のご威光を現しなさることが出来る。いうなら神様が無いと言う者には、ないだけの働きしか、だからないわけですね。神様ありと信じてしかもその神様が、の働きがいよいよ尊いもの、いよいよ有難いものと分かれば分かるほど、神様の前に言うなら平身低頭いわゆる、天地日月の心にならざるを得ないのである。
 「天地金乃神は昔からある神ぞ」と。でも知らないまではいうなら、天地の神様の威を現すことができなかった。おかげは受けておっても、おかげと分からなかった。金光大神のご出現によって初めて、神様の御恩徳を受けなければ、おかげを受けなければ、実は立ち行かない。その事を私共は知らずに、いわゆる天地に対する神恩報謝の生活もできずにおったということです。だから神様はいよいよ敬う。尊ばしてもらう。
 その事を昨日、会合のありました後に、秋永先生、高橋さんたち一緒に、色々話をしよる時でしたけれど、その事をまあ話したことでした。本当にあの御神前に出るということ。私共毎朝のことですけれども、御神前に出させて頂く時の気持ちというものは、もう本当に薄氷を踏む思いで出させて頂く。もういうならば、もう恭しくというか、もうこれ以上、その気持ちはもうあるまいと思うくらいに、恭しゅう出らせて頂かなければいられないほどに、ま、神様を敬わせて頂くことが出来ておるという事は有難い。
 それで、私、夜のご祈念なんかは、皆、ここの、他の修行生の方達が、移り変わり、交代でやって、私の付くご祈念の座に座って御祈念をしておるけれども、こんなことで良かだろうかと、私は、いよいよ昨日、話したことでした。これは、ご祈念の座は、下のほうに変えるべきでなかろうか。平気で座っているような気がする。ご結界においても然りである。御結界行ったら、平気で、御結界に座っているような気がする。ね。もうそれは、本当にご結界に座ったら。
 まあ成程威儀を正さなければおられませんし、またそういう働きがあっておる所ですけれども、平気で座るようになったらもうだめだと。これはご結界もこれはよその教会辺りでは全部必ず下からです。教師の資格を持っておっても、親先生がここへ座られるなら、ここでおりて、ここからお取次をなさいます。と言う事もやはり本当にここの、いわばもうそれこそ、霊妙不可思議な働きのあっておることをです。ここへ座ったんでは、もう霊妙不可思議な働きは止まってしまう。
 ご神前だってそうである。この頃から霊祭の時に、元菊栄会の方達が、お祭り前の清掃をやってました。それはそれだけの年功積んでおりますし、とりわけ神様、真実心から頂いておる人達ばかりの、ある意味で集いですから、もう本当にもう慎みに慎み、それこそ潔斎してね。言うならもう何日も前から潔斎する。そしてお水を頂いたり白衣を着けたりして、ご神前に出てお掃除をしておった。なら今のその後をどうした事からか知らんけれども、松栄会がするようになった。
 私何にも知らんなりそげんなっとった。成程お水も頂きよら白衣も着けよる。白足袋はいてやはりはいよるけれどもです。私はこの頃から、ちょっとおかしいなと思うことがあった。この前は、原昌一郎さんが、ここで落ちてから骨折したりした。この前は堤清さんが、ここへ向かってきよって、あのようにダンプカーに単車が巻き込まれるといったような事故が起こったり。まあ自分は無傷の状態でしたけれども、驚いたことにはもうてんで、ここへ来た時には、酒がぷんぷんの匂いしよった。
 例えばそういう大事な御用ばどういう、お付き合いとは言いながら、その大事な御用をさせて頂くのに、酒を飲んでここに向かってくるなんて、もう言語道断だと私は思った。こらそれこそ神様がですね、それをお気付け下さっているように思わせて頂いて、是からもう少し慎重に丁重に、是はおかげ頂かねばいけんのではないだろうかと。ね。もうそれこそこの内殿に入ったら身がジーンとするぐらいにならなければ駄目だ。
 それを平気で内殿に入って行く様な事をするから、いわゆる神様の威光というものを現すことはできない。けれどもここにはなんとはなし、そういう働きは一杯あっておるんです。このお広前には。ね。甘木の平田さんじゃないですけれども、ここの神様は生きてござるち。ね。ここへお広前に入ったらそれを感じるほどに、ここではそういうものがあるのだと。それをこちらが枯れた心とか、お粗末御無礼な心で向かうなら、やっぱそのくらいのお気付けくらいあるのは当たり前。
 なるほど神の威光というか、本当に敬わせて頂く、とてもお互いのほんなら、自宅の神様でもそうです。お三宝が右向き、左向きし取る様な事で、神様のいうならご威光を現すことは出来ません。本当に神様の前を通らせて頂くでも、本当に御無礼致しますと言う様な気持ちで通らなければおられない。それを前を平気で通りよるようなこつなったら、もう神様の威は地に落ちてしまうように是は結局私共がです、神様を大事にする尊ばして頂くと言う事はとりもなおさず。
 神様のお働きがお働き良いように、神様のご威光がですいよいよご威光として現されることのために敬うのである。尊ばせて頂くのであるという事になるのです。天地金乃神は昔からある神じゃ。さあ知らない間はそれで良かった。ね。知ってから私はいわば天地にお粗末ご無礼なことのあるようなことであってはない。例えば御寺内をみだりにけがすようなことがあってはならない。
 なるほど大地の内をけがすどころか、反対に清めると言う様なおかげを頂かせて頂くところから、大地の御威徳と言うものを頂くことができる、現すことができる。お互いどのくらいに神様を尊ばせて頂いておるだろうか。どれだけ神様が威を現されるほどのことに、宅の神様ご神前で人が見えて、ここの神様は生きてござると言う様な感じが与えられるくらいな、生き生きとした雰囲気がご神前にはなからなければいけないと思う。私はいつも思うんですけども、月次祭の前日にあの神饌物を全部下げてしまう。
 何もお供えがしてない。ただご神飯だけで、はぁもう本当に私はよそのときも何時もこんな具合な状態で、ご祈念さして頂いたらどんなに良いだろうかと思うです。お供え物が麗々しくしてあるから、賑やかであるとか有難いであるとかというのじゃない。もう本当に、その神威に打たれる思いがするんです。そういう事を以前、神様にお願いしたことがあります。もうお供えはお月次祭の日だけで、後はもうすきっとですね。いわゆるしたいと思ったことがある。
 けども神様はそれは許されませんでしたけれどもね。だからもうもういっそ例えばお三宝もなければ、御供え物もしてない。お供えもさせて頂いたら、すぐ下げさせて頂いて、もう本当に神様と私共とが相対して、何も邪魔がないような有り難い神様のところまで神様を高めなければならん。初めて天地の神様の、おかげを受けることができる。これは一つのまあ信心させて頂く者の心掛けでもある。皆さんが初めの間は大掃除をするでも、本当に身がジーンとするぐらいにありますとこう。
 確かにそうなんですよね。御結界でも、初めの何回か座った時にはもう、もうそれこそもうこうとても、ここでは笑いどん出来ません。と言う様な意味の事をいいますけれども、しばらく慣れるともう平気でご神前に出るようになり、平気でまあいうならばご結界を軽く見るようになる。ね。大体信心とは反対にです。接すれば接するだけ、神様が有り難い。まあある意味合いにおいては有り難いと同時に、神様が怖いお方だと分かるようにならなければいけない。それが信心が進んでいきよる証拠。
 そういう意味で私共は益々神様は、尊ばせて頂くだけではない、神様はまたある意味合いでは怖いお方だと分かっていきよる。ね。そこん所が是は分かるまでは。私はいつかあの佐賀の教会に、みな佐田さん達とご一緒に行った時に、その親先生がお座りになる所の祝詞があると、ようと他の先生方が御祈念なさる所の座が違うのを見せて頂いて、ほういろんな所があるなと思っていたけれども、私は昨日からしきりにそれを考える。
 西久留米のあたりにお参りをすると、もうどんなに永年の教師の資格を持った先生でも、絶対、先生の御結界にはつかんのです。着かせなさらんのです。西久留米あたりにお参りになった方はご承知でしょうけれど、もうどんな先生でも必ず下から座布団も引かずに、ここでお取次を、先生のお手代わりの時にはそれをなさっとられる。そして先生のいわゆるお取次を、ここで自分自身がしら真剣に頂いて、御結界に御用をなさっておられる。ね。これは演出のようであるけれども。
 やはりそう言う所の、先生との信心が開きというものを感ずるからこそ、またそうさせられるのであろうというふうに思うのです。皆さんでも同じこと。愈々神様の天地の神様のおかげを頂かなければ、いやおかげは頂いておっても、神様の威を感じなければ、心から有り難いというものは生まれてまいりません。そこで天地日月の心になること肝要と。成り行きを尊ばせて頂くとか、成り行きを大事にさせて頂くと言う事は、そのまま神様を尊ばせて頂くことであり、大事にすることであるということ。
 これはやはり私は思いましたけれども、いかに神様を麗々しゅうお祭りして、もう有り難い勿体ないで拝んでおっても、神様の働きそのものを、粗末にするのであっては、神様をもう粗末、尊ばせて頂いておる事にはならないという風に、申しておりますけれども、これは先ずなんと言うても、いわゆる神様の威が分かるほどに神様を大事にする。それから、神様の働きが分かる。それから神様の働きもまた大事にするという事に、やっぱならなければ嘘のように思う。
 折角拝む対象としてお祭りをしてあるのですから。そら神様は御社の中に納まりなさるてござる神様でもなからなければ、ね。ですけれどもやはり神様をお祭りしたからには、神様を、神床(所)をしつらえさせて頂いたからには、そこが清められたり、本当に前を通る時には、頭を下げにはおられんほどしの、神様の威というものが現れなさるくらいな神様をそこに頂かなければ、お祭りをした値打ちはなか。
 またおかげも受けられんと。ね。そこのところが、本当に分からせて頂いて、その神様の働きをまた、大事にする。いわゆる天地日月の心になる。ね。なるほど神様を私がただ今申しますように尊ばせて頂く。例えば私がご神前の、御祈念の座に着かせて頂く心持というものが、これは年々まあ年々というですね。段々私の信心が進んでいくにしたがって、そういう尊いものになってくる。
 慣れっこになるという事は、先ずないでしょう。それが分からんなりにいうならしておるから、仕舞いにはもう神様と友達のごつなる。(笑い)平気で御祈念の座に座らせて頂いても、有難いものを感じ取る事が出来ない。神様の威を現しなさらんから、そういう事になる「はやる事もなければ、また終わりもない」。と言う事は神様のいうならご威光というものはです。何時も同じだけれども、私共信心をさせて頂く者拝ませて頂く者の信心如何によって、その威光を落としたり増したりする訳になります。
 神様のお働きというものは何時も同じ。古風なようですけれどもいかに神様が丁重に祭られ、丁重に拝まれなければならんかと言う事が分かる。丁重に頂けば頂くほど神様がまた丁重に扱うて下さる事になる。そこが根本的に分からせて頂いて、神様の御働きそのものを丁重に頂くようになる。なるほどいよいよ神様の威を増しておいでるばっかり。ということが、合点が出来ます。
 これはあの御神米なんかでも、ここでは他所の教会ではお初穂包まれると、もうお初穂に対して御神米が下がるのです。他所の教会は。ここでは初めから、御神米というものがなかったですからね。その事になっとりますけれども、私の考えとしては、もう沢山貯まるです、御神米が毎日お参りをすると。ほんなら十人ずつぐらい皆さん、お届けをなさいますと、十日すりゃ百体貯まるわけですよね。そうすると御神米をおろそかにする。ね。疎かにしたらもう、御神米の威というものはなくなるのです。
 そこでここでは、ね。神様がとりわけ下げてくださるときか、要るときは皆さんが御神米をと言うて、また欠かす事は決して出来ない。五体一体はもう必ず頂いておかねばならない。ね。けれどもそれは丁重に丁重に頂いておるのであって、また丁重に頂くのである。御神米ば毎日頂くち言う人があるけども、毎日頂きよるともう普通のご飯と同じことになってくる、ね。だからここで御神米の包装紙、包装紙でも御神紙として頂いておかげを受けておる人がある。
 そういう意味で私は御神米を、ここでは下げない事にしてるのです。ね。それと同じようにです。私は神様もその位に、生き生きとした働きを現して下さるだけの、働きをして下さりよい、一つの工夫がお互いなされなければいけない。今日は皆さん帰ったら早速、ご神前の掃除をなさって、お供え物なさって、そしてご神前の前には汚い物だん決して置いちゃ出来んぞと。神様の前で子供のオシメを変えたりする人がある。
 私はもう、ほんとそれは、お広前来てから、そんな事をする人があるですけん、信者控え室の、それでしなさいち私は言うんです。神様を恐れないこともおびただしいですね。そうしないとおかげは受けられんです本当に。神様へいうならば、お祭りをさせて頂いたら、奉仕をする。御神飯のお供えをする。お供えをする。お榊の水を取り替える。お光をあげる。それがもう実に丁重なのです。
 夕べもその話をしたんですけれども、ある日大変霊徳を受けられた先生の所ではね。そこのお弟子さんたちに御神米を折られる。もう百体で二百体でもいいて、日に折るとは。毎日ずうっと折よりなさるのにね。だからもうそれこそ真心を込めて、決して曲がったりゆがんだりしない様に折れと言われる。ご神前のお供えをなさる時には、ちゃっと修行生の方が尺を持っておってね。
 そして尺でこう計ってきちっとこう置かれる。まあ大変な霊徳を受けられて助かっておられる先生の話を、昨日まあさせて頂いたんですけども、それだけ、神様の御威徳がお現しなさることができるのです。面倒くさいと言う事じゃない。そうさせて貰わなければおられない心を頂かねばならぬね。そういう神様が有り難くならせて頂いて、初めて神様のご威光に触れる事が出来るね。それを今度はまた生活の場においてです。神様の働きそのものを尊ばして貰う、大事にさして貰うという。
 この両面ができる時にです。いよいよ神様の威を現しなさる事が出来る。所謂おかげを受けられる道理であります。ね。神様だけが麗々しくされた、というだけでもいけません。ここではどこまでも一つ、いわば生活の現場においてでも、ね。神様の働きをそこにあっておるのですから、実意丁寧にならなければおられないのであり、事柄でも神様のいわば御事柄として受けていくといういき方。そこに神の威光がね生き生きと現れないはずがない。そういう意味で本当にお粗末御無礼になってはいないか。
 私は今日の御理解。ほんならここの手代わりの先生方でもです。今日のご理解を頂いたらまた、今日から私はその祝詞ども変えようと思うたぐらいですから、変えはせんにしましても、はあ、そんなもんかなと思うてです。ね。もうそれこそ大地にひれ伏す思いで、ご神前奉仕をしてもらわにゃならん。御結界奉仕をしてもらわなければならない。でないと、如何に親先生のお手代わりでございますといったっちゃ、親先生の御威光が現れない、それでは。ね。親先生の上に現れなさる。
 金光大神の御威光がそれで、消してしまうことになる。私共はここに座らせていただいて、これは椛目の時代に、書いたものは残っているんですけれども、ああいう慎重さであったというのはね。ここへ座らせて頂いて、先ずどうぞ私神様と氏子との間を取り結ぶ、ここは橋の様なものだと。その橋、橋は橋ですけれども、その橋が汚れておるから、みんな汚さんように。手すりが壊れておるような感じですから、そこから落ち込まんように、ここの橋が暗いから、ね。
 どうぞ神様一人一人の心の光によって、この橋を渡るように、もうその事を切実にいのらなければ、自分というものが分かれば分かるほど、それを祈らなければおられなかった。簡単なことじゃない。お取次というものは、ね。そういういうならば慎重さをもってしても、まだ足りない思いで、御結界の奉仕をさせて頂きました。自分の成程、金光大神のお手代わりではあるけれどもね。そのお手代わりを邪魔にするものが座っておるんだ。どんなにここに天地金乃神の働きがあっておっても。
 それを薄いものにないものに、いやそれとは反対の働きになるような事すらに、なってくるんだ。だから、本当に、御結界と言う所はそうね。まあいうならば一つのレンズ体の人がここには座らなければいけん。いうならば天地金乃神様のお働きを、ここにあるように、皆におかげはやってあるというのは、もう皆に一様なんです。けれどもここでお取次を願うからには、特別のおかげを頂きたいと言うて、参ってくる人ばっかりなんだね。ですからその神様の働きと言うものを、ここに集中しなければならん。
 レンズでこうやって致しますと、レンズに熱を集中する事が出来る。そしてこちらへ墨で書いたものが、黒い物があるとそれを、焼ききってしまうでしょうが。巡りがあるなら、巡りを焼ききってやらなきゃいけん。ままにならない人があるなら、ままになるだけのたぎるものが、ここにはなからなければならない。それが御結界。だから本当にそういう働きが出来る、私でなからなきゃ出来んという事。
 ところが実際はそうではないのですから、私のようなものが座っておりますから、どうぞそこん所が信者がそれで、けがしませんように汚しませんように、という事になってくるわけです。ですから却ってレンズ反対に引っ込んだレンズがありましょう。というのは、神様の働きがここまで来るんけれども、ここん所に行かずに、反対に散漫になってしまう。だから却っておかげを頂ききらんと言った様な事にまでなって来る訳です。
 ですから今日私は、神様を敬うとか丁重にと言う事が、私自身が分かれば分かるほど汚れておる私、汚い私というものが分かれば分かるほど、そこは薄氷の上を渡るような思いがなければならない。そこにもう本当に恐れ入る、恭しさと言うものが神様に通う。だから、神様の威を愈々増しなさる事が出来るのである。まそういう意味で例えば御結界の奉仕なんかというものを、それだけに敬える人。
 また自分自身が分かる人でなければできない。自分の汚れとるとが邪魔になっとる事は平気で。それでは、ちょうど引っ込んだレンズが座っておるようなもんですから、おかげは散漫になってしまうのです。そう言う事を、今日は七節から感じさせて頂いた。なぜ天地日月の心にならなければならないか。なるほど、流行ることもなければ終わりもないけれども、ね。それを、何もない、何でもない。
 いうなら、天地金乃神様を知らなかった昔のようなことでは、おかげは受けられんじゃないか。天地の親神様のご出現、金光大神のご出現によって、天地金乃神様をこのように分からせて頂いたのであるから、分かったが最後、お祭りをしたが最後、お祭りさえすりゃ良いというのじゃない。お祭りしたその神様が、果たして威を落としておりなさるようなことはなかろうか、宅の神様が。
 いよいよ恭しいもの、いよいよ謙虚にご神前に額づかなければおられないほどの神様に、私共がさせて頂かなければ、神様の威は落ちてしまうだけ。どうぞ一つ、神様の威を現す、神様のご威光を現すということが、私ども人間氏子の、とくに信心をさせて頂く者の努めであります。いよいよ神様を大事にする。また、神様の御働きを尊ばせてもらうということが、いよいよ、なるほどと合点がいくわけでありますね。
   どうぞ。